【協会】旅、時々ユースホステル「旅は苦しみ?」



■ 旅、時々ユースホステル~旅やユースホステルに関するエッセイ~

旅は苦しみ?

 travelの語源はtravail(トラヴェイル)。
 これは元来、「苦しみ」「拷問」、ひいては「女性の出産の苦しみ」を意味する言葉でした。その言葉がなぜ、現代では楽しい旅を意味する言葉の元となったのでしょうか。
 そもそも、わたしたちはいつから、旅を楽しいものと考えるようになったのでしょう。

 「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがあります。おそらくこのことわざは、旅が苦しみを伴った時代に作られたものでしょう。もしそうでなければ、かわいい子にただ楽しい旅をさせるだけになってしまい、ことわざとして意味を持ちません。

 旅が、昔は苦しかった理由とはなんでしょうか。
人々がなぜ、どのような思いで旅に出たのか、それは時代によってさまざまに異なりますから、ここではひとまず脇に置いておくとして、一方でおそらくどの時代にも共通の旅の悩みであったであろう、荷物の問題に着目し、この理由を考えてみることにします。

 今日、わたしたちがどこかへ旅に出ようと考える時、多くの場合、最初に駅や空港などの交通機関に向かうと思います。中には始めから車で出発する人もいるでしょう。そして、そこから乗り物に乗って目的地へと移動を始めます。たとえ荷物が重くとも、ひとたび乗り物に乗せてしまえば、あとは、少なくとも移動中は、その荷物の重さに悩まされることはありません。
 ところが、昔の旅人たちは、旅のあいだじゅうずっと、その荷物の重さを自分の身体に感じていなければなりませんでした。――なぜでしょうか? さらに彼らには、今とちがってもう一つ、常に持ち運ばなくてはならない荷物すらあったのです。
 その荷物とは、自分自身。
 すなわち、まだ自動車も鉄道も発明される以前、人々の旅は、「歩いて」が基本だったということです。

 きょう、わたしたちの日常生活において、成人が1日に歩く量は平均4000~6000歩と言われています。健康を意識してよく歩いた場合でも、せいぜい10000~12000歩、距離にして、10㎞足らずにすぎません。そのような生活を送る今のわたしたちにとって、昔の旅人が1日に30kmから40kmの道のりを歩き、最終的に何百kmも離れた土地まで到達したという話は、容易に信じうるものではありません。
 ところが、冷静になって考えてみると、機械の登場はすべてこの200年あまりの出来事ですから、長い人類の歴史の中で、旅に乗り物が使われてきた時間は、きわめて短いことに気付かされます。乗り物を使って旅をしている今のわたしたちの方が、古今東西の旅人の中では、むしろ少数に属するのです。

 「旅とは、長い道のりを自分で歩くものであった。」
 このこと一つだけでも、旅という言葉が苦しみを意味したことに、少し、合点がいくのではないでしょうか。

 ここで補足しておきますと、自動車や鉄道の発明以前にも、世界には馬や、その馬に車輪を牽引させる駅馬車とよばれる交通手段がありました。しかしながら、そのような手段を選べたのは一部の人に限られており、多くの人々にとってはやはり、歩いていくことが一般的な移動の手段であったのです。

 乗り物による旅と比べて、徒歩による旅が安全さや快適さに欠けることは、想像に難くありません。そのうえ、一歩町の外に出れば、野生動物や山賊に遭遇する危険もあったでしょう。そのような危険を冒してまで、人が旅に出たのは、いったいどのような理由からであったのでしょう?
思うに昔は、人が旅に出るためには、何らかの、強い動機が必要だったのではないでしょうか。そのような覚悟や動機なしで乗り越えられるほど、当時の旅が容易ではなかったことは、これまでの記述から想像していただけると思います。ひょっとすると、大多数の人は、そもそも旅に出たいなどと思いもすらしなかったのではないでしょうか。

 旅に出るための動機には、一体どんなものがあったのでしょうか。
 一般的に言って、人は理由もないのに、すすんで苦しみを求めることはしません。意味がなければその苦しみは、ただ耐えがたいだけです。けれども反対に、その苦しみが未来の祝福を約束するなら、人はどのような苦しみであれ、きっと耐えうるものでしょう。その代表的なものが、聖地巡礼でした。
世界にはさまざまな宗教がありますが、その多くの宗教がそれぞれの聖地を持っています。有名な場所ですと、ローマ、メッカ、ガンジス河といったところが挙げられます。そうして、古来から数多くの信徒たちが、それぞれの聖地をめざして、自分から長い旅へ出かけていきました。自分の信仰を試すために、あるいは、よりいっそう強固なものにするために。

 一方で、そのような集団的な理由とは異なり、まったく個人的な動機から旅に出る人たちも、もちろん存在しました。これから紹介するのはそのような旅人たちのエピソードです。彼らの動機はどんなものだったのでしょうか。

 まずは、日本では音楽の父として有名な、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)。いまから約300年前の時代の人です。彼もまた、このような徒歩旅行を経験した一人でした。
 これは、バッハが20歳の時のエピソードです。
 当時バッハは、小さな町の教会でオルガニストを務めていました。それは、20歳の若さで務めるにはすでに立派な地位でしたが、バッハは現状に満足を見出せず、さらに自分を成長させるために、ある旅を計画します。
 それは、当時きわめて影響力のあった、ブクステフーデという音楽家を訪ね、彼の音楽に直に触れてくるというものでした。彼は毎年、秋になると盛大な音楽会を催すことで知られており、若いバッハは、いつかその音楽会に行くことに憧れていたのです。
 しかし、そこには大きな問題がありました。単純で、しかし大きな問題です。つまり、ブクステフーデの住む町は、バッハの住む町から遙か400kmも北に離れたところにあったのです。その町を訪ねて、ふたたび自分の町に戻ってくるためには、数十日にわたって、ひたすら歩き続けなければならないことがわかっていました。
 それでも、どうしてもその音楽会をあきらめきれなかったバッハは、ある秋の日、心を決めて教会に4週間の休暇を届け出て、冷たい風の吹く中、その道のりを歩き始めます。そしてついには望み通りに、念願の音楽会に出席することができたのです。さぞかし苦しい旅であったでしょう。けれども、そのような長い苦しみの果てに耳にした音楽は、いったいどれほど素晴らしいものであったでしょうか。

 次に紹介するのは、ユースホステルの父、リヒャルト・シルマン(1874-1961)の話です。彼が活躍したのは今からおよそ100年前。当時、すでにいくつかの町では電車が走り、さらには車が走るようにもなってはいましたが、いわばまだ過渡期であり、依然として徒歩による旅を行う人たちが大勢いました。
 リヒャルト・シルマンも歩いて旅をしました。一説によると、彼が1日に歩いた距離は70㎞であったとも、140kmであったとも言われています。(!)この彼の健脚は、当時の基準に照らしても相当なものです。あるいは、そのような彼であればこそ、のちにユースホステル運動へと発展する、あのユニークな授業法、ワンデルンシューレ(移動教室)を思いつくことができたのかもしれません。

 これはシルマンがユースホステル運動を始めるきっかけになったエピソードとして知られる話です。
 当時、ドイツでは急速な工業化にともない、大都市に暮らす子どもたちは気ままに外を出歩くことができませんでした。なぜなら、空はつねに工場の煙に覆われ、町の中にいては青空を見ることも、新鮮な空気を吸うこともできなかったからです。そのような状況を見かねたシルマンは、ある日子どもたちを郊外の自然の中へ連れ出します。もちろん、遠くへ行くための手段は徒歩によるしかなかったのですが、鬱屈した暮らしに辛い思いをしていた子どもたちは遠足に大喜び。何十kmという道のりを日帰りで往復して町に帰ってきたとき、彼らの表情は、疲れよりもむしろ喜びで輝いていたと言います。
 何度かそのような移動教室に出かけるうちに、あるとき、シルマンと子どもたちは、遠足先で嵐に見舞われるという経験をしました。とっさに避難する場所とてもなく、荒れ狂う空を見上げながらシルマンの心には、子どもたちのために、安全な宿がぜひ必要だという思いが湧き起こります。
 当時、旅人の宿と言えば、1階が居酒屋を兼ね、階上に数室の客室をもつスタイルの「ガストハウス」や、薪を宿賃代わりに受け取り、寝るスペースだけを提供する簡素な「木賃宿」などが一般的でした。今で言う「ホテル」も存在していましたが、すべてが高級ホテル。大勢の子どもたちが一度に泊まれる宿など、どこにもなかったのです。

 やがて、シルマンの始めた運動の輪は、世界中へと広がっていきます。わずか数十年の短い間に、このような普及が起こったのは、おそらく世界中で同じ状況があったためでしょう。運動が拡大するにつれ、いくたびも大きな困難にぶつかりましたが、シルマンはそのすべてを乗り越え、運動は現在へと至っています。

 きょう、ユースホステルの存在は、多くの人にとってはただの宿以上のものを意味することはないのかもしれません。しかしすべて物事には歴史があります。リヒャルト・シルマン亡き後も、彼の意志を継ぐ者たちが、現在も世界中で子どもたちのために、この運動を担い続けています。
 わたしは、リヒャルト・シルマンの存在なくしては、今のわたしたちの旅はずっとちがったものになっていたのではないかとすら考えています。

 リヒャルト・シルマンが影響を受けたと言われる思想家の一人に、フランスのジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)がいます。自由と自然を愛した思想家で、フランス革命の起きる精神的な土壌を作った人物として有名ですが、彼はまた同時に、すぐれた教育論を書く人でもありました。子どもの健全な成長のために、大人たちは何をすることが求められているか。彼の著書「エミール」には、その自由と自然の思想が端的に語られています。リヒャルト・シルマンもこの書物を手にしたかどうか、それは定かではありませんが、二人の人物の思想は相通ずるものを持っていたと言うことができるでしょう。

 さて、このような偉人たちのエピソードを知るにつれ、わたしはどうしても一度、自分でもこのような徒歩旅行に挑戦してみたくなりました。
その動機には単純な好奇心とともに、一種の対抗意識があったようです。つまり、技術がどんなに進化しても、昔の人にはできたことが今のわたしたちにはできないとしたら、人類は、身体的には退化したことになってしまう、と恐れたのです。

 季節は秋。しばらく秋晴れが続くという天気予報をきっかけに、わたしは、バックパックに寝袋とキャンプ道具を詰めて、京都を出発しました。なぜ宿でなくキャンプを選んだのかというと、自分が一日にどれくらいの距離を歩けるのか、まだ見通しがつかなかったためです。
 わたしはまず、三条大橋から大津を目指し、大津から先はそのまま時計回りに琵琶湖を一周、最後にふたたび出発地である京都まで戻ってくるという計画を立てました。
 距離にして、約300㎞。
 いま、数年前のその「旅」を振り返ってみても、わたしは楽しかったという感想では、その旅を言い表すことはできません。想像以上に荷物が重く、すぐに足腰が痛くなって、なぜこんな無謀な旅を始めてしまったのかと、初日からしきりに後悔していました。歩いても歩いても、自分がまったく前に進んでいるようには思えないのです。ようやく琵琶湖大橋に着く頃には、すでに心身ともに疲れ果て、いっそ京都に引き返そうかなどとしばらく思い悩んだほどでした。悩みながら、バッハを、ルソーを、リヒャルト・シルマンを、あらためて尊敬しました。
 けれどもしだいに、自分の歩みが進むにつれて景色も移り変わり、数日目の朝に初めて琵琶湖から昇る朝日を見た時に、心の中に大きな変化が起こりました。ただ一度、美しい風景に出会っただけで、荷物の重みも足の痛みも、忘れることができたのです。もしもわたしが電車で旅していたとしたら、ただの朝日にこれほど感動することはなかったでしょう。
 それ以降の道のりは、ずっと楽になりました。肉体的には相変わらず苦しかったのですが、心が余裕をもつことができたので、自然と視点も変わっていきます。
まず、徒歩旅行の良さは、何よりも、自分の好きなタイミングで休めるところにあると気づきました。なにせ、乗り換えも遅延もないのですから。疲れた時には、歩みを止めて湖の水で足を冷やしたり、ちょうど収穫期を迎えた稲穂が、秋の日を浴びて黄金に輝く姿に見とれたり、琵琶湖の北の方では夜の明かりがずっと少なく、満天の星を眺めることができたりしました。山の奥で食べものを買う場所がなく、水とビスケットで夜を明かしたこともあります。そのようにして、あれほど長く感じた道のりも、いまや踏破可能と確信するに至りました。
 10日ほど経ち、対岸にふたたび大津の町並みが見え、そろそろこの旅が終わることを感じた時、わたしは、なんともいえぬさびしさに襲われたことを覚えています。最後には、わたしの心は、この旅をもっと長く続けたい気持ちに変わっていました。

 この旅は苦しい。
 けれども、美しい。

 ルソーは著書「エミール」の中でこのようなことを言っています。

「目的地に着くことだけを望むのなら、駅馬車を走らせるのもよかろう。しかし旅をしたいと思うなら、歩いて行かなければならない。」


Writer: 呉 基禎
ドイツ留学をきっかけにユースホステルの存在を知り、その理念に共感する。文学と自然が好き。旅に関する言葉で好きなのは、アンデルセンの「旅は学校」。

カテゴリー: ニュースリリース, 記事/旅紀行   タグ:   この投稿のパーマリンク

▲上部へ戻る