「北嵯峨エリア」は京都市右京区に位置する、いわゆる嵯峨の北側です。
この辺りは観光客がほとんど訪れない場所ですが、散策するにはとても良い場所です。
京都の町中から車で30分ほどで素敵な田園風景が見られる場所でもあります。
平安時代には「秦氏」が百済から渡来し、帰化した「太秦」が近くにあることから古墳も多く残っています。
今回は、実際に歩いてみて発見した「北嵯峨エリア」の見所を紹介します。
※この記事は2019年度立命館大学文学部インターンシップ受入活動の一環で、学生により作成されたものに加筆修正したものです。情報は当時のものになっていますので現在とは違う場合があります。予めご了承ください。
宇多野ユースホステルの西隣は、竹林が続いています。嵐山のあの場所ほど立派ではないですが、全く混雑してませんので、こちらの方がゆっくり散策できます。
そして山越通との交差点、南西には「千代の古道」の道標があります。平安時代、都から大覚寺方面へ行く際に貴族たちが通った道です。多くの和歌に詠まれています。紫式部も通ったかも?
そして西に進むと右手に印空寺が見えてきます。
「旧御室御所茶所」とあるように、御室仁和寺(御室御所)門跡が外出する際に、この印空寺の前身である印空庵を休憩所として利用していたと伝えられています。
境内には、葉書きのもとになった文字が書ける多羅葉(たらよう)の木があります。
年末大晦日には除夜の鐘をつきにお参りさせてもらっています。
またすぐ脇のお寺の敷地内にはこんもり円形の印空寺古墳もあります。
印空寺より道を挟んで向かい側には、「桜守」として知られる佐野藤右衛門の邸宅がある「植藤造園」があります。
邸宅には約200種類ほどの桜が植えられており、桜の季節になると隠れた名所として多くの人が訪れます。
造園から伸びる木は歩道にまで及び、桜の季節になると圧巻の風景が広がることを想像することが出来ます。
そして植藤造園を後にし、道なりに歩いて行くと突然視界が開け、大きな池「広沢池」が見えてきました。
池畔に立つと百人一首にも登場する小倉山などが見渡せます。
古くから月見の名所として知られ、藤原定家や後鳥羽院も広沢池の歌を詠んでいます。
ちなみに夕暮れ時はこんな絶景が見られることも。
※写真提供:伊藤孝一氏
毎年8月16日には大文字の送り火が行われています。
ここ広沢池では灯篭流しと鳥居形の送り火を拝むことができ、大勢の方で賑わいます。
毎年宇多野ユースホステルからもスタッフ引率のウォーキング鑑賞ツアーを行っています。
冬は、池のヘドロ化を防ぐ意味と養殖されていた鯉の引き揚げを行うために池の水を抜いています。
冬の日の日の出風景もきれいです。
平安時代中期には、宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正というお坊さんが広沢池のほとりにあった山荘を改め、遍照寺を創建しました。寛朝僧正が亡くなった後遍照寺は衰退し、現在は広沢池から南へ500メートルほどの所に移っています。
すぐ脇には秦氏由来かどうか分かりませんが、広沢古墳群の一つ「稲荷古墳」があります。
見ての通り古墳の上に稲荷社・富岡大明神が祀られています。古墳の上に登れる貴重な場所ですね。
広沢池のほとりには人工で作られた観音島があり、ユニークな千手観音が祀られています。
愛嬌のある可愛らしい観音様です。
もともと宇多野ユースホステルの裏山、音戸山山中にあった五智山蓮華寺にあった石仏と言われています。
(五智山蓮華寺は現在は御室仁和寺の東側にあります。他の石仏もこちらに移されています。)
観音島ではザリガニを捕っている地域の方にも出会いました。
まいまい(うろうろするの京言葉)しながら散歩してここまで約20分です。
観音島のすぐ傍に兒神社という神社があります。
この神社は、寛朝僧正の死を悲しんで自身も後を追って広沢池に身を沈めた待児を祀っているのだそうです。
境内には寛朝僧正の待児が座ったとされる石椅子や境内の土の中に埋まっていたハート型の石などがありました。縁結びにご利益があるかどうかはわかりませんが・・・。
さらに歩みを進めると、視界いっぱいの田園風景が現れ、京都の街中とは全く異なる風景が広がっていました。
この辺りは歴史的風土保存地区に指定されており、嵯峨野地区の中で最も平安時代の面影を残していると言われているそうです。
秋は、稲穂にかかしと日本の原風景が広がります。ここ本当に京都市内!?
まとめ
今回は午前9時頃に散策をしましたが、交通量も少なくのどかな雰囲気を楽しむことが出来ました。街中とは違う京都の一面を肌で感じました。のんびり静かな京都を感じたい方、平安時代の雰囲気を感じたい方、そして宇多野ユースホステルに来られた方にはぜひ北嵯峨エリアの散策をおすすめします。
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