【協会】旅、時々ユースホステル『私と宇多野』vol.2 出家?ハワイ移住?



■ 旅、時々ユースホステル~旅やユースホステルに関するエッセイ~
『私と宇多野』 vol.2 出家?ハワイ移住?



前回の記事に引き続き私が愛したここ京都の宇多野、
今回は止むを得ずその宇多野からハワイへ移住することになる
話をさせていただきます。

実家がお寺ということもあり
毎日必ず夕方6時ごろになると
家族一同が集まり午後の「お勤め」があります。
(各お寺によって異なります)

このお勤めは子どもにしてみれば大変長く感じるため
最後までじっとしているのが結構つらいんです。

正座のしすぎで背が伸びなかったのは言うまでもない。笑

幼い頃から耳にしていたお経は
子守歌のように聞かされていたので
自己意識するようになった頃には
もう一人ですらすらと唱えていました。

お寺の住職は私の母方のおじいちゃん。
実家は両親、祖父母、叔父叔母と住んでいたので
当時は10人ほどで生活してました。

家族が多いってとても幸せですね。
もはや誰がお父さんで誰がお母さんか区別がつかなかったです。笑

両親がいなくても寂しいと感じることがなく祖父母にべったりでした。
なんせ初孫なので可愛がわれていたわけです。

そんな祖父母大好きっ子に思わぬ大事件が起きます。

それは小学校5年生の熱い夏の昼下がり、
何気なく母親が運転している車に揺られていると
母親が私と妹に向かって「ハワイ行こか」と一言こぼしました。

私はすぐに母親が何を言っているのか理解しました。
というのも父親は東京生まれのハワイ育ち、
父方の祖父母は私が生まれた頃からハワイで生活していました。

私自身も小学校3年生の時一度、
ハワイに旅行に行ったことがあるのです。
その時の事ははっきりと覚えていなくて、
単純に祖父母に会った記憶しかないものでした。

祖父はまったくの白人アメリカ人でして、
当時私はもちろん日本語しか話せなかったので、
祖父と会話をしたくても一切言葉が通じず
両親に頼ってばかりでした。

まあ私には英語はまったくの無縁のもの、
生涯必要ないものだと思っていました。

そんな中、突如母親が
「ハワイへ移住しよう」と持ちかけたのです。

正直京都から離れることをまったく想像していなかったので
ただただ悲しい気持ちでいっぱいでした。

なぜ移住することが決まったかというと
ハワイに住んでる祖父が亡くなり祖母が独りになるので
長男である父親がハワイへの移住を決定したのでした。

もちろん私たち兄妹は両親についていくほかありません。

ハワイへの移住が決まってから私にはある想いがつのりました。
それは「どうしても小学校を卒業したい」と。

そして私は両親に「小学校を卒業した後にハワイへ行く」と伝えました。

言葉の通り私は日本に一人残る選択をし、
両親と妹はハワイへ旅たったのです。

その後、離れ離れに暮らしましたが寂しい思いもなく
小学校6年生はあっという間に過ぎていき、
日本に滞在できる期間は残り1ヶ月となりました。

私は悲しくて悲しくて毎日涙を流していました。
そんなある日、祖父母は私に小学校を卒業後、
僧侶になることを進めてきました。

祖父母は私がハワイに移住する前に
僧侶の資格を得ることを前から望んでいたようです。

僧侶になるには「得度(とくど)」を受ける必要があります。
得度とは髪を剃って僧になることです。
私は得度を受け無事僧侶の卵になることができました。
その際に法名をいただくのですが「聞拓(もんたく)」となりました。



聞とは「仏の声を聞く」という意味でつけられ、
拓は私の名前です。


▲得度を受けた高田本山(国宝)

無事得度を終えハワイへ旅立つのですが
そこでまず言語の壁にぶち当たるのでした。

今回のお話はここまで。
次回、ハワイ生活スタート編をお楽しみに!!


Writer: マツカゲモンタク(Taku M. Cossey)
生まれは京都宇多野、育ちはハワイオアフ島。
宇多野、ハワイを愛し愛されたハワイアン僧侶。

過去の記事
『私と宇多野』vol.1

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